古きを尋ねる(その1)

元気なうちに、私が育った場所を尋ねてみることにしました。私の父は教員をやっていて、長野県の各地を3年毎に転勤し、その結果、私は小中学校で6校の転校を経験してきたのです。その多くがへき地で、車がないと廻れません。女房にもお願いして、墓参りもかねて、2泊3日の計画を立てました。
5月8日朝、ラジオ体操をして7時仙台発、東北高速を南下して、東京の圏央道、中央高速を経由して午後1時30分ごろ長野県伊那市の実家着でした。カーナビは便利ですが、私のカーナビソフトには圏央道の久喜から八王子の手前までが入っていなくて、急きょ女房に運転させて、私が地図を頼りにナビゲーション、何とかうまくいきました。
実家は無人なので庭の草むしり(玄関周りだけ)と、墓の掃除でした。
次いで、小学校1年を過ごした美篶小学校へ行きました。

当時は、学校の校門左脇に宿舎がありそこに住んでいたのですが、65年ぐらい前のことで、当然宿舎は新しくなっていました。その脇に防火用水も兼ねた池がありました。記憶にはないのですが、4〜5歳の時にその池にはまっておぼれているところを、入学式で燕尾服を着た校長先生が通りかかって助けてくれたとか、今はその池もありません。校舎は鉄筋コンクリートに替りましたが、一部の木造校舎が残されて郷土資料館になっていました。
校庭でぶらぶらしていて不審者に間違われてはいけないということで、老男性と話をしていた女性の先生らしき人に事情を話して許可を得ました。
すると、隣の老男性が
「君はayamadera君ではないか?」
「え!!、どうして貴方は僕のことを知っているんですか?」
「一昨年の高校の同窓会で、君は手品をやっただろう、その時の顔と名前は憶えているんだよ」
「じゃあ小学校でも同じ学年だったんだ。当時のことは覚えていないけれど、僕は1組でした貴君は?」
「3組でした」
「でも、こんな場所で同級生に出会うなんて全く奇遇ですね」
暫く話が弾みましたが、彼は退職後は郷土史研究家として活躍しているそうで、その後、いろいろな資料が届けられました。