東日本大震災から5年半が経ちました

 石巻市大川小学校の大勢の生徒さん(108名中74名)が震災で犠牲なった事は皆さんもご承知のことと思います。私も石巻の被災地には何回も行き、震災に遭われた門脇小学校の現場では手を合わせてきました。しかし、大川小学校については、どこにあるのか、私の持っている地図では探すことができませんで今日に至りました。
 10月10日の朝日新聞のローカル面に、その場所の地図が載っていて、ようやくその場所が判明しました。その場所は、なんと、石巻市の市街地から北東へ直線距離にして16km、車を使って、山を越え、リアス式海岸の曲がりくねった道を約1時間かけて到達できる場所でした。
 地図で、石巻市の市街地近傍をいくら探しても出て来ないはずです。そこは、大型町村合併で石巻市編入された最北端の地だったのです。
 早速11日に出かけることにしました。大川小学校は、旧北上川河口追波湾から溯る4kmの地点でした。
朽ちかけたコンクリートの構造物が、津波の恐ろしさを如実に物語っていました。

カメラを東に向けて、大川小学校の西側を写した写真です。津波は左向こう側からこちら側に進んできました。

さらに右側です。左側の建物と右側の建物は繋がっていませんが、ここにも2階建ての校舎があったのです。さらに右側にも山際まで校舎がありました。
 生徒たちはその手前のグランドに並べられて、30分後に津波の被害を受けたようですが、生徒たちはコの字型の校舎が邪魔で、津波が押し寄せてくる追波湾の河口は見えなかったのです。津波を警戒してグランドに集合させられたのでしょうが、津波が押し寄せる様子が見える場所でなぜ待機しなかったのでしょうか。

写真はさらに右側の山です。グランドのすぐ右側が山になっていて、グランドの中央から50mの距離で山に登られるのです。山は中央部の色の薄い部分はやぶになっていて、やぶ漕ぎをして逃げるのは子供には大変です。その向こう側と手前側の濃い緑の部分は杉林です。向こう側の杉林には林道があり逃げやすいですが、津波が来る方向になっていて、津波が迫っている中では避難できません。さらに右手前の杉林には獣道のような細い道があり、登りにくいかもしれませんが、5mぐらい登ると杉林に到達し、その中は下草もほとんどなくて、登りやすい斜面です。なぜ最初からここに逃げ込まなかったのでしょうか。
  ”校庭に隣接した山ですよ”
  ”グランドの中央から、50mぐらいのの距離しかないんですよ”
 実際には校庭から北に向かい、西に大きく迂回して橋のたもとまで行こうとしたようですが、その手前で津波に飲み込まれてしまいました。そこに避難していたとしても、それより大きな津波が押し寄せていたのです。
”先生方の誘導間違い”以外の何物でもない、というのが私の結論です。
 今、犠牲になられた子供さんの父兄の方が、石巻市と担当の教員方を相手に訴訟を起こしています。
この場所を見るまで私は、未曽有の大震災の責任を先生方に押し付けるのはかわいそうな気もしていたのですが、現場を見て考えががらりと変わりました。
校舎の2階からは追波湾が見えたと思います(校舎は現在立ち入り禁止です、想像で言っています)。監視している先生がいたとすれば、津波は確実に見えたはずです。津波が2〜3km先向こうの堤防を越えて田んぼに流れ始めた様子も確実に観察できたはずです。河口付近に比べて田んぼは面積が広くなっているので、津波の速度は遅くなっていたと思います(専門家でないので想像です)。津波が堤防を越えたのを確認した時点で、校庭脇の山に逃げ込めば全員が助かっていたと思います。何を判断材料に、悠長に、大きく迂回して橋のたもとに避難したのでしょうか。
 74名の幼い犠牲はあまりにも可哀そうです。命を救える方法があったと思えて残念な気持ちです。
私たちは、途中のコンビニで買ってきた花束を慰霊塔に捧げて、手を合わしてご冥福をお祈りしました。
慰霊塔には途絶えることなく人が訪れていました。