古きを尋ねる(その3)

小学校の5〜6年は伊那市の郊外の平坦地に戻りました。私にとっては一番果敢な時期で、初恋(片思いでしたが)もしました。仲良し友達は、野性的で乱暴者の克彦君、いつも冷静で理性的な宗夫君、技術屋の私の3人で、3人寄れば小学生でも文殊の知恵、今から考えると、とんでもない悪戯を次から次へと考えて実行していました。
拾ってきた鉄パイプや真鍮のパイプを加工して鉄砲を作って、火薬はかんしゃく玉の火薬を取り出して加工し直して、玉は警察の射爆場に不法侵入して、拾った鉛の球を溶かして型に流して作りました。それをクラスの男子に広めたのはさすがにやり過ぎでした。この時は親父から
「お前が銃刀法違反で警察沙汰になると、お父さんは先生をやっていられなくなる、そうなると、お前たちを食べさせられなくなる。これだけは止めてくれ」
この時だけでした、親父に頭を下げられたのは。
そんな思い出が沢山あった伊那北小学校でしたが、今では統合されて高台に移転していました。校舎の跡地は幼稚園に、グランドは住宅地になっていて跡形もありませんでした。
伊那東中学は1年生だけでした。ここも統合されて移転し、跡地は市の総合グラウンドになってしまいました。
中学2〜3年は、またも、とんでもない山奥の生活でした。
中沢中学は、天竜川を眼下に見下ろし、その先には雄大中央アルプスを眺められる風光明媚な場所だったのです。でも、中沢中学校も統合されて移転してしまい、跡地は中沢小学校になっていました。グランドは当時の面影がありましたが、私の好きだった木造の理科教室は、今では、コンクリートの建屋の職員室のあたりだったでしょうか。
中学時代は、学校の記憶よりも住んでいた場所の記憶の方が鮮明に残っています。
親父の赴任先は中沢小学校の南分校で、中学からさらに海抜で300m以上高い谷間にありました。急峻な谷で、谷底から10mぐらい高い場所に狭い平坦地があり、そこに校舎と型ばかりのグランドがありました。その脇の傾斜地を削って6畳2間の住宅が建てられていました。私たちの家族はそこに住んで、私は毎日自転車で中沢中学まで通学でした。300mの高低差と言うと、登山では約1時間かかる高低差です。朝はスイスイでも、帰りはほとんど自転車を降りて押して帰らなくてはなりませんでした。今では多段変速で軽量の自転車もありますが、あったとしても高低差のある砂利道では通用しなかったでしょう。

3年の夏、大雨の朝でした。親父が
「大変なことになっているから来てみなさい」
外に出てみると、谷の水かさが増して大きな石がごろごろ転がっていきます。水かさが増して、根こそき折られた木の集団が流れてきて、谷にかかる橋を一気に押し流しました。さらに水かさが増して、眼下の家を押し流していきました。地元ではこの種の災害を”鉄砲水”と称していましたが、いわゆる”土石流”です。規模の小さい鉄砲水は毎年どこかの谷で発生していたようですが。この様に大規模の鉄砲水は初めてだったようです。この鉄砲水で谷の岸辺にあった人家は消失しました。
高校は伊那北高校で、伊那の実家から徒歩で通えたのですが、1年の時に中沢小学校南分校の隣の谷がやはり鉄砲水にやられて、同級生だった女子が1名なくなりました。さらに次の年には、南分校のあった谷がまたまた鉄砲水の被害に遭って、百〃目木(どどめき)地区を除いてほとんど人が住めない谷になり、分校も閉鎖されたのです。
今回、どうしても、その分校跡地を尋ねたかったのです。
谷を遡って、どどめき地区まではわかりましたが、その先は、行けども行けども谷底の山道で、分校跡地らしき場所はありません。どどめき地区まで戻って農作業をしていた老人からその場所を教えてもらいました。

行くときも見えていたのですが、谷にかかるコンクリートの橋の向こうの石碑、そこが分校跡地だったのす。谷は土石の流れを止めるために堰堤が何か所にも設置されていて、当時の谷底は高くなっていて、昔の面影が無かったのです。分校跡地はうっそうたる杉林で、崩れた石垣が人間の生活の跡を想像させる程度でした。
石碑には、分校が度重なる水害で閉校に追いやられたことや、歴代の先生の名前が刻まれていました。そこには親父の名前も載っていました。

この旅で、私が通った5つの学校のうち、残っていたのは美篶小学校ただ1校でした。何と表現していいのやら、複雑な気持ちだけが残りました。
女房との故郷めぐりはこれが最後になるでしょう。皆様には全く興味のない話でしょうが、私の一つのけじめとして記録に留めることにしました。